4月1日、30歳になった機械工ラーシュ・マグナス・エリクソン(1846-1926)はストックホルムのドロットニングガータン15番地にある 13 平方メートルの部屋に電話器修理工場を開く。当時の唯一の機械は足旋盤だった。数週間後、元同僚カール・ヨハン・アンダーソンが工場に加わる。まもなく、工場は手狭になり、年末にヤコブスベリィスガータン 23B へ移転。同年、米国でアレキサンダー・グラハム・ベルが電話の特許の申請を行う。 トウェインの「トム・ソーヤの冒険」が発行される。
事業は順調に伸び、熟練工 4 名と見習工 1 名を雇うまでになる。再び工場は手狭となり、ラストマカレガータンへ移転。
「電話」という用語が初めてエリクソンの帳簿に登場する。外国製の電話器の修理を初めて依頼される。エリクソンは自身で電話器を製造することを考え始める。この年の終わりには、22 台の「小型拡声器がついた磁石式電話器」を発売。価格は 1 台 55 クローネだった。 エジソン、白熱電球を発明。 西南戦争が起こる。
年間 74 台の電話器が生産される。火災電信機器、電気機器等、他の製品の製造も開始する。オーナーを含めた従業員数は 10 名に上る。 米ボストンを中心に電話会社が乱立する。イギリスで小包郵便が始まる。 朝日新聞が創刊される。
より広い設備を確保するために会社をノルマルムスガータン 5 番地へ移転する(現在のビブリオテクスガータン)。エリクソンは初の DC 信号式の壁掛けタイプの電話器を生産する。この年、ストックホルム・ベル・テレホンアクチェボラグが、スウェーデン初の電話交換局を開設する。 ベル電話会社が設立される。
テレグラフベルケット(スウェーデン電気通信行政局)が政府と民間の会社間で 32 の電話回線を使った電話サービスを開設する。エリクソンは電話器の改善、特に「らせん状のマイクロホン」の特許を申請する。さらに、ヤブレの町の電話事業への入札が認められその結果、会社は飛躍的な成長を遂げる。最初の海外からの注文をノルウェーより受注。
ヘンリク・トーレ・トーステン(1853-1909)はストックホルムでベル・ネットワークへの接続権を収得後、電話会社の設立を思いつく。 世界初の発電所がロンドンに建設される。
H.T.セーデルグレンスがストックホルムス・アルメンテ・テレホンアクチェボラグ(SAT)を設立。SAT はエリクソンと電話器供給の契約を結ぶ。エリクソンはツーレガータンで最初の工場建設を開始する。SAT は 1,000 台の電話器と 22 台の交換機を注文する。 SAT の加入料金は 100 クローネでベル・カンパニーの半分以下だった。年末までに SAT への加入者は 785 人に上った。
エリクソンは新工場へ移転する。SAT は大規模で近代的な電話交換局を開設するためにマルムシルナドガータンの土地を購入する。
エリクソンはアントン・アベンとレオナルド・ルンドクビストのアイディアから発想を得て、最初のハンドセットを発表する。 グリニッジ経度を世界標準時に採用。万年筆が発明される。