ストックホルムは今や世界有数の電話量を誇るようになる。年の初めには、電話加入者は ストックホルムス・アルメンテ・テレホンアクチェボラグ(SAT)で3,164人、ベルで1,655人に上る。 植字機械が登場し「ニューヨーク・トリビューン」紙に採用される。
エリクソンはストックホルムのマルムシルナドガータンでSATが開設するヨーロッパ最大の電話交換局に装置を提供するという、当時では最大の契約を結ぶ。工場の週あたりの労働時間は62時間から57時間へ短縮される。 ヘルツが電磁波の存在を実験で証明。
ベステロスの加入者向けにSATはスウェーデンで最初の2本線の加入者回線を作る。 SATはストックホルムのベルの株式の大多数を取得。 毎日新聞が創刊される。
エリクソンによって製造された電話器は20,000台に上る。「エリクソン健康保険」と「葬儀基金」が設立され、エリクソンは1,000クローネを寄付する。テレグラフベルケットがストックホルムとヨーテボリィ間で長距離電話サービスを開始し、人々に電話サービスへの加入を呼びかける。テレグラフベルケットとSAT間の競争が激化する。 フランスで電話事業が国有化される。 大日本帝国憲法発布。東海道本線が全線開通する。
エリクソンは工場を増築する。従業員は153人に達する。 東京―横浜間で電話交換が開始される。
テレグラフベルケットは電話器と交換機の製造のために工場を建設し、地元の電話会社の買収に乗り出す。エリクソンは輸出事業の増加によって損失の埋め合わせをする。シカゴのストログナー兄弟が電話交換局用に自動交換装置の特許を申請する。
最初の卓上タイプのハンドセットが登場。オランダの電話会社と初の契約を締結。
年間の電話器の生産高は11,545台に達し、当初の計画の10,000台を上回る。
エリクソンの会社の商標が登録される。モティーフには1892年に生産されたタイプの電話器が採用される。 ベルの電話特許が切れ、各国に電話に関する競争が勃発する。
SAT がストックホルムで最初の地下ケーブルを敷く。
エリクソンは100万クローネの株式を所有するL.M .エリクソン株式会社(LME)となる。SATは電話器の製造のためにアクチェボラゲット・テレフォンファブリケンを創設し、エリクソンの競争相手となる。
エリクソンは主に電話器の組み立て作業を行うためにピータースバーグに工場を建設。
LMエリクソン職場組合が設立される。
エリクソンはピータースバーグに生産工場の建設を開始する。
ラーシュ・マグナス・エリクソンは社長を辞任し、アクセル・ボストロームが次期社長を引き継ぐ。 パリ万国博で初のトーキー映画が上映される。 公衆電話が上野と新橋駅に設置される。料金は5分間で15銭。